Il sole illumina.

純度100%の主観

ソーセージパーティを見た日

7月も終わろうとしているころ。

期末試験もレポートも今日で終わり、という日だった。

朝のうちに、当日中締め切りのレポートを書き上げて提出。

あとは次の日、朝七時までのオンライン試験を受けるだけだった。

これが終われば夏休みである。

 

夕方、バイトがあったので、よる九時ごろ家についた。

疲れた。

帰り道に恋人と電話をしていたが、些細なことで泣きそうになっていた。

風呂に入りたくない。

あとで、父親に仕送りのお礼の電話をしなければならない。

すべてがめんどくさかった。

 

とりあえず、おなかがすいているのだろうと思って、

冷凍ごはん(三か月前に冷凍したやつ)をおかゆにして食べた。

醤油と塩と胡椒で味付けしたが、胡椒がきいていておいしかった。

 

風呂に入らず、父親に電話をし、そのあと風呂にはいった。

えらい。

 

テストを受けなければならない。

レジュメをある程度読んでから、試験を受ける。

バイトが終わってから、風呂に入るのがめんどくさく、

メンタルが完全にやられていたので、泣きながらレジュメを見ていた。

泣いていた理由は特にない。

 

夜中の一時頃にレジュメを読み終わり、やっとテストを受けれる状態になった。

40分70問なので、時間との勝負である。

レジュメを読み返し、ネットで調べまくり、やっと解き終わった。

残り三分で提出した。

が、セッションがタイムアウトしていた。

残り三分で回答の作り直しである。

絶望する暇もなく、いそいで覚えている回答を書いたが、所詮三分である。

四割ほどしか書けなかった。

 

落胆だ。

絶望だ。

こんなことで落胆することある、、、?

(私はこれまで一応フル単であった)

いや、奨学金かかってるし。

(GPA2を切ったら奨学金がとまる)

落胆だ。

絶望だ。

 

もともとのメンブレに加えてて、さらなる絶望が飛び込んできた。

普通に泣いた。

今度は落胆が悲しかったから泣いた。

 

夜中の二時である。

 

寝る気は起きない。

寝れるわけがない。

何か楽しい気持ちにならなければ。

 

と思ってコメディ映画を探した。

イエスマン

(見たことはないが、名作だしな、、でもなんか泣けそうな感じするしな、、)

ヘアスプレー

(見たことあるし、好きだけど、コメディだっけ?)

飛んで埼玉

(洋画の気分である)

TED

(この間みた)

ソーセージパーティ

(いい感じにお下品そうで脳死で見れそう、、、)

 

これだ!

ソーセージパーティにしよう!!

ということで見ることにした。

 

ソーセージパーティーとは、2016年公開のアメリカ発の3DCGアニメ映画である。

グロテスクな描写と下品な発言と描写で日本ではR15あたりである。

ちゃんとネトフリの描写にも、「大人向け」と書かれていた。

 

メインストーリーはスーパーで売られている食品たちはみんな人間に買われると天国に行けると思っている。そんな世界線のソーセージとパンの恋人の話だ。

ヒロインのパンのお尻が非常にかわいいのでそこがみどころである。

 

イメージ6割下ネタ、3割グロ、1割ラブといったかんじだろうか、

メンタル瀕死状態でも、見れた。

下ネタはTEDのようなダイレクトなかんじではないような感じはしたが、総じて下品なオーラは感じた。

やはり、こういう映画には心を浄化する作用がある。

見終わったころには絶望だったメンタルもかなり上向きになっていた。

 

よし、お気持ち表明をしよう。

だって、まじめにテスト対策した生徒が、通信の不具合で落単するなんておかしいじゃないか。

やれるだけの手はつくそう。

 

そんなことまで思えるようになっていた。

今思えば、はじめから、お気持ち表明はしとけよとは思うが。

朝の四時に、お気持ち表明をして、眠りについた。

 

8時に目が覚めた。

メールがきていた。

「通信の不具合なら仕方ないから、12時までにテストしなおしてね☆」との旨のメールだった。

やったー--!

落単回避である。

何事も、試してみるものだな、と。

昨日、お気持ち表明をしようという気分にさせてくれた、ソーセージパーティに感謝である。

 

前置きがものすごく長くなってしまったのだが、

要するに、

言いたいことは、

悪いことが続いて、パーっと明るい気分になりたいときは、

ソーセージパーティを見るという選択肢を持っていてもよいかもしれないです。

ということが言いたかったです。

シュレッダー

シュレッダーが好きだ。

大学に入るまで、企業用の大きめのシュレッダーに触れてこなかったが、アルバイトを初めてからシュレッダーが好きになった。

「これシュレッダーかけてもらえる?」

「分かりました」

ダダダダダダ

と、何度も繰り返した。

 

その度に思うが、

シュレッダーは美味しそうに紙を食べる。

本当に美味しそうに食べる。

 

シュレッダーは紙を砕く為に、紙を食べるために存在しているのである。

紙を食べないと、彼らに存在価値は無いのだ。

人間によって、紙を砕くために作り出され、人間から与えられた紙を食べて砕くことによって、彼らは存在価値が与えられているのだ。

 

だから、彼らが紙を食べている時というのは、彼らが存在する意義を見出されている時なのだ。

だから、紙を食べている彼らは、美味しそうに紙をたべ、

美味しそうに紙を食べる彼らは輝いているのだ。

だから、その輝いているシュレッダーが好きなのだ。

 

おデート

先日、恋人とデートに行った。

会う日は多いが、デートらしいデートは久々だった。

いつもより髪を綺麗にして、服も可愛めの物を着た。

 

「お腹空きすぎてるから俺は気を紛らわせないといけない」

レストランの待ち時間にゲームを始める。

まじかー、まあ、お腹すいてるもんね、お腹すいてるときついもんね。

 

「お荷物お持ちしますよ」

「いいんですか、ありがとう」

うれしい。

 

「かわいい」

ありがとう、好き。

 

私が買い物している間。

何も言わずに待っててくれる。

ありがとう。

 

「俺はね、あんずさんが、デートだからっていつもよりかわいくしてきてるのが嬉しいんですよ」

そんなとこ見てくれてるのか、嬉しいじゃん。

君も香水ふってるね。

 

服を買って着替えた。

出てきても、私と気づかない。

普段全く着ないタイプの服だからだ。

 

「今日はお酒飲みたいな、あそこはどうですか」

「なしでは無いな、いこうか」

まだ付き合う前に初めてサシ飲みした居酒屋である。

付き合う前の色んなことを思い出した。

 

久しぶりのデートはいつも会うより「デート」らしい、雰囲気だった。

彼はたまに、え?そんなことする?みたいなこともするが、私もそんなことをしているんだろう。

それぞれの家の文化圏の違いである、たぶん。

 

私の感情をマイナスにもプラスにも大きく動かしている彼だが、

彼の行動は大体私への思いやりに満ちている。

その優しさがとても嬉しく、好きなのだ。

「納棺夫日記」と「おくりびと」

授業のレポートを書くのに、映画「おくりびと」をみて、その原作の「納棺夫日記」を読んだ。

 

授業では、おくりびとの方は抜粋で見ていた。

泣いた。アイメイクが全部落ちた。

全15回の授業で人の死にまつわるシーンを沢山見てきたが、1番泣いたと思う。

人の死を描くことで浮かび上がってくる、生が非常に鮮明で美しかった。

 

その後、おくりびとの原作である納棺夫日記を買った。

青木新門さんという詩人から納棺師になった方が書いたものだ。

読んでみた。

映画と小説、全く違う。

雰囲気が違う。

 

たしかに、どちらも納棺師が、試行錯誤しながら、多くの人の死に向き合っていく話だ。

しかし、主題が全く異なる。

 

映画の方は先に書いたように、生と死の対比が非常に美しく書かれている。

小説は死のあり方について書かれているのだ。かなり宗教色、仏教色が強い。

 

また、映画には映画なりの脚色が加えられており、

小説には小説なりの、描き方がされている。

 

主題は異なるが、雰囲気はそのままで、伝えたいことを上手く伝えていくあり方が非常に良いと感じた。

夏きたる(暑い)

恋人が付き合いたてのころに、ヨルシカの「花と亡霊」を教えてくれた。

「あの、The 夏って感じがいいんだ」と。

たしかに、夏だった。

聞いているだけで夏の爽やかな感じ、まだこれからなんでも出来るぞという感じが、切なめの曲調と共にとても伝わってきた。

 

久石譲のあのなつへのThe 夏という感じとも少し異なる。

(あの夏への方はかなり切なさが強い。

夏の夕方、夏休みで一日中休みだったけど今日は何してたんだろうな、とか、

お祭りが終わってしまって少し寂しい感じとか。

夏の切ない概念を全て盛り込んでいる。)

 

夏になったらこの曲をぜんぶ堪能できるんだろうな、と思っていた。

 

夏になった。

学校のテストもレポートもおわり、本格的に夏休みも始まった。

花に亡霊の季節である。

 

え。

暑い。

アイスは口に放り込む前に溶けてしまうし、

風は待てない。

扇子か、手持ち扇風機である。

そんな気分ではない。

 

友達が「夏は暑いし虫がいるから全く好きではないけど、夏の概念はすき」

と言っているのを思い出した。

全くその通りだ。

花に亡霊は夏の良い概念を存分に詰め込んだ曲である。

しかし、実際の夏は暑すぎてそれどころではない。

 

「今年暑すぎて花に亡霊とか、そんな綺麗な夏の気分じゃない」

と恋人に言ったら

「あれは、夏のイデアだからなぁ」

と返ってきた。

間違いない。

 

しかし、今後も夏になれば、花に亡霊のことを考え、

花に亡霊を聞けば、夏のことを考えるだろう。

 

音楽と香りはその時の記憶を鮮明に維持することが出来ると思っている。

この先ずっと、花に亡霊を聞く度に、

恋人と初めて過ごした夏のことを思い出すのだろう。

断捨離

断捨離。

最近、気分が落ち込むことがよくあって、気分の下がるものを家から排除しようと必死になっていた。

あとは、課題からの現実逃避。(期末期間中である)

 

賞味期限の切れた調味料、

もらってから一度も開けてなかったもの、使わなかったもの、

傷んだ下着、

読み終わった本、

昔の授業のプリント

などなど

八か月くらい前に引っ越してから、前の家では使っていたけど、今の家では使ってないものもたくさんあった。

水回りの掃除もした。

飾ってある水晶もきれいにした。

いつも手が回り切らないところもきれいにした。

 

とても家がすっきりした。

まだ終わってないけれど、半分くらいしか断捨離は終わってないけれど。

使い倒して、古くなったものにはありがとうと

使いきれず、手放すことになったものにはごめんねと

言って手放した。

それを必要としている人は他にいるはずなのに、

私がそれを必要としていないから、それは捨てられる運命にあるんだと、

少し心は痛んだけど。

必要のないもの、気分の上がらないものは今後買わないように、

大事なものだけ使うように

買ったものは大事に使うように、

しようと思った。

物は大事に使おうね。

 

好きなもの、きれいなものを大事に使って

好きなものに囲まれて暮らしたい。

「死んでしまう系のぼくらに」

最果タヒ先生の「死んでしまう系のぼくらに」という本を読んだ。

本を知ったきっかけは大学の授業にて。教授のおすすめというか紹介。

私は詩集を買うことから初めてで、ターゲット層的にとっつきやすそうということで買ってみた。

 

感想はとてもよかった。

共感できるものもあれば、あ~この方はこういう風なものの考え方をするんだな、という感じのものもあった。

一番印象的だったのは、あとがきである。

その、共感できるもの、共感しきれなかったもの、わかりづらかったもの、に対しての説明がきれいになされていた、というか、

それでいいんだという感じがした。

おそらく、最果先生も全部共感してもらうために描いているわけではなくて、自分の心の中のものを文字に起こしているだけなのだということが分かった。

だから、共感するのも、共感しないのも、完全に読者の自由であるというある意味手放しの印象をうけた。

その、言葉は想像よりも自由で、思ったこと、感じたことなどに対して自由に使ってよいのだということを教えてくれたようにおもう。

 

先日、恋人に「なんか私がよく泣く以外に不満とかないの?」って聞いたら、少し渋った後に「僕は感情は割とシンプルなものだと思っていて、泣いてる理由とか、こう思ったとかいうことに対してだらだら説明されると、言い訳じみたものに聞こえる」と言われた。

私は感情はわりとぐちゃぐちゃしたものだと思っていて、だから、どう思ってるとかなぜ泣いてるのかについて聞かれたときに、そのぐちゃぐちゃしたいろんな絵具が混ざった、でも、混ざり切っていないマーブルな状態のものから、エッセンスをうまく抽出して話しているつもりだった。

彼の話を聞いたときに、確かに、感情がシンプルなものだと考えている人には、私の思考回路の説明を聞くことはかなりめんどくさいんだろうなと思う。

 

というような、ここ最近の少しもやもやした経験に対して、最果先生は私の考えを肯定してくれたような気がした。

あとがきの中で最果先生は

「意味づけるための、名付けるための、言葉を捨てて、無意味で、明瞭ではなく、それでも、その人の、その人から生まれた言葉があれば。踊れなくても、歌えなくても、絵が描けなくても、そのまま、ありのまま、伝えられる感情がある」

とおっしゃる。

ぐちゃぐちゃしてても、大丈夫なんだと思った。

恋人にとってそれはめんどくさいものなのだとしても、私の、私だけの、感性と感情は大切にしていこうと思った。

 

『絆未満の関係について』

『線香の詩』

『まくらの詩』

『大丈夫、好き。』

あたりが作中では特に好きでした。